ホークスに関係するコンテンツ
福岡ソフトバンクホークス
野球
少年野球
王貞治
田淵幸一
秋山幸二
あぶさん
福岡ドーム
平和台野球場
大阪球場
阪神甲子園球場
中百舌鳥球場
ホークス大好き!
野球大好き!ネットで調べたホークスや野球の事をどんどん紹介していきます!
お気に入り
田淵 幸一(たぶち こういち、1946年9月24日 - )は、東京都出身の元プロ野球選手(捕手、一塁手)・プロ野球監督・プロ野球指導者、野球解説者、阪神タイガースOB会会長(第6代)。
株式会社タブチエンタープライズ所属(生島企画室にも業務提携という形で在籍)。ニックネームは「ブチ」「ブッちゃん」「タブタ」「オッサン(東尾修が使用)」。3代目ミスタータイガースとも称される。
現役時代は阪神の主砲として活躍し、に移籍した西武では2年連続リーグ優勝・日本一に貢献した。引退後はダイエーの監督、阪神のコーチを歴任。北京オリンピック野球日本代表ヘッド兼打撃コーチを務めた。現在はTBS・スポーツニッポンの解説者(TBS解説でのキャッチフレーズは「天才ホームランアーチスト」)。
来歴
プロ入り前
会社を経営していた裕福な家庭で生まれ育った。両親と姉の4人家族。豊島区立高田中学校在学中に野球を始め、2年生から5番を打つ。法政大学第一高等学校で捕手となり、4番を打った。3年生時のには夏の甲子園の東京都大会準々決勝まで進んだ。法政大学経済学部に進学し、1年生の春から東京六大学野球リーグに出場。山本浩二・富田勝と共に「法政三羽烏」として騒がれ、3年生の春にそれまでのリーグ通算記録8本塁打を早々と更新、通算で22本塁打まで伸ばし、1997年に高橋由伸に破られるまでリーグ記録だった。
のドラフト1位で阪神タイガースに入団。ドラフト会議前には巨人の指名が確実視され、本人もそれを望んでいたとされる。しかし実際には予想を覆し、関西出身の富田勝を指名すると噂されていた阪神が田淵を1位指名した。これはに阪神が王貞治を獲得する交渉を進め、王自身も阪神入団をいったん承諾したにもかかわらず土壇場で巨人に奪われた日本プロ野球名選手 王貞治ことへの東京で生まれ育ち、学校も全て東京の田淵にとっては、兵庫県西宮市を本拠地とする関西の球団はイメージすら浮かばないという心境で悩んだという。ドラフト前に巨人関係者と会食し、「君には背番号2を用意している」と言われ感激したが、ドラフト指名がこのような結果になってしまい、落胆した。一方、諦めきれない巨人側も、密かにとあるホテルで会談を画策したが、同じホテルで大洋の選手の契約更改記者会見と重なってしまい未遂に終わる。後日談として、田淵は現役引退後のゴルフコンペで川上哲治に直接問い質したところ「わしは知らん。喋らん」と言われてしまった。
ドラフト指名後の記者会見で、母親が田淵を「ぼくちゃん」と呼んでいることが発覚して記者たちの度肝を抜いた。大阪へ出発する東京駅では、号泣する母親に記者たちが「まるで出征兵士やな」と失笑を買った。
阪神時代
阪神入団後は強肩、強打の捕手として正捕手に正着。22本塁打を放ち、新人王を獲得した。しかし、2年目の8月26日の対広島戦で、外木場義郎から左こめかみに死球を受け昏倒。耳からは血が流れており、すぐさま救急車で病院に搬送された。この事態に衝撃を受けた球界は、以後耳つきヘルメットを使用することになった。この怪我は「田淵の体質がこれで全て変わってしまった」と言われるほど大きなもので、翌年まで尾を引いた。この頃、打撃フォームを一本足打法にしてから飛距離が伸び始め、には34本塁打を放つ大活躍。江夏豊とのコンビは「黄金バッテリー」と呼ばれた。しかし、この頃から入団当時「もやし」「キリン」のあだ名を持つほどやせていた体型が急に太りだした。4月26日の対巨人戦(後楽園球場)の6回に関本四十四から左翼席へ3号本塁打を放つと、8回に菅原勝矢から左翼席へ4号2ラン。打棒は勢いをさらに増して9回には同じ菅原から5号3ラン。そして、続いて5月9日の対巨人戦(阪神甲子園球場)で行われた試合でも2回に高橋善正から左翼席へ9号ソロ。次の打席では死球に終わったものの、7回には高橋から左翼席へ10号2ラン。9回にも高橋からセンターへ11号ソロを放って6打数連続本塁打とした。さらに翌10日には1回に高橋一三から左翼席へ12号2ランを放ち、同一カード7打数連続本塁打という記録を作った。
同年9月9日の対ヤクルト25回戦で、連続イニング無四死球のプロ野球新記録を続けていたヤクルトの安田猛が、2-2の9回2死二塁で田淵を敬遠したことにより、その記録が81イニングで止まった。安田は7月17日の対阪神15回戦、8回表1死二塁で田淵を敬遠で歩かせたのを最後にその試合の9回から無四死球を続け、1950年の白木義一郎の74を破って記録を更新していたが、田淵がそれを止めた格好になった。
に父親が死去。当日、知らせの電報を受け取りつつも、金田正泰監督の「試合を気にせんと帰ったれ」の言葉を振り切って出場し、平松政次からホームランを2発放った。
には王貞治の14年連続本塁打王を阻止する43本塁打を打ち、初タイトルを獲得した。現在に至るまで捕手としては最後の本塁打王獲得者
この前年、田淵は自己最多の45本塁打そして自身初のシーズン40本塁打を放ちながらも4本差で本塁打王を逃していたが、1975年は開幕から打ちまくった。その一方で王は怪我で開幕から出遅れ最終的には王と10本差をつけての本塁打王を獲得した。しかし翌年から再び王に本塁打王のタイトルを奪還され、無冠に終わっている。
西武時代
オフ、堤義明を総帥とする西武グループによる買収で福岡市から埼玉県所沢市へ移転した西武ライオンズの顔としてトレード入団。阪神から田淵・古沢憲司、クラウンから真弓明信・竹之内雅史・若菜嘉晴・竹田和史の2対4の大型トレードであった。トレードは深夜に呼び出され通告される異例の出来事であったが、球団側の「今度行く西武の根本監督は良い監督だから、行ってよく勉強して来い」という説得に対し、「じゃあ、(阪神の)ブレイザー監督は良い監督ではないんですか?」と言い返した。
トレード自体はすったもんだの末行われたものだったが、根本陸夫(~)・広岡達朗(~)監督の下で体を鍛え直し、に一塁手に転向し、指名打者でも活躍。5年ぶりとなる40本塁打以上(43本塁打)を記録(西武球団史上初の40本塁打でもある)。1982年・には阪神時代なしえなかったリーグ優勝と日本一も経験した。限りで現役引退。
引退後の1985年から5年間、TBSの解説者を務める。1987年オフに第2次吉田義男監督が退陣し、新しく監督になった村山実から打撃コーチをお願いされるも、阪神球団が復帰を望んでいないことが判り、村山監督が東京までいき説得を試みるも、過去にトレードに出された際の球団の不手際もあり、復帰を断った。阪神の馬鹿力・ミリオンムックより
ダイエー監督時代
、杉浦忠の後任として福岡ダイエーホークスの監督に就任したが、成績不振のため限りで退任した。監督時代、地元・福岡市である市議会議員が「市を挙げて、市長が先頭に立ってダイエーを応援しよう」と主張しており、議員・市民にも同調者は多かった。しかし当のチームは弱小球団でAクラス入りすらままならず、1990年は当時史上ワーストのチーム防御率もあり最下位になった。そのためその議員には「こんなに弱いようでは田淵監督を証人喚問しなければならない」とまで発言された。同年オフには「広島の長嶋と長内がトレードに出されるみたいだ」とセレクション会議の内容を漏らしてしまい減俸処分を受けた。1993年~2001年は、再びTBSの解説者を務める。
阪神コーチ時代
から2年間、親友・星野仙一監督のもとで古巣・阪神のチーフ打撃コーチを務めた。の阪神のリーグ優勝には打撃指導の面から大きな貢献を与える。「うねり打法」と称した打撃理論で濱中おさむ・関本健太郎などを育成する。その反面、成績が不振な選手や見込みがない選手に対しては早々と切り捨てて見限る事もありデリック・ホワイトの成績不振ぶりには「もう(あいつに)直接教える事はない。後は本人次第で頑張ってもらうだけだから」と「戦力外」の烙印を押し、後にホワイトの解雇につながるなど、選手の指導にはシビアな側面もあった。たたし、ホワイトに骨折が判明し、試合に出られる状態ではないのにベンチに入って声を出していた姿に感激して、おそらく解雇になるだろう同選手の幸運を祈ったと自著に記している。専任コーチ経験のない監督経験者が監督退任後にヘッドコーチ以外のコーチに就いた例は、中西太・杉下茂ら兼任監督だったケースが大半で珍しい例である田淵以前の例として、阪神などの監督を歴任後に西鉄ライオンズの投手コーチを務めた石本秀一がいるが、石本はプロ野球での選手経験がない点が田淵とは異なる。。田淵自身は、星野政権下やその勇退後に「俺は監督に向いていない、せいぜいヘッドコーチまでだ」とたびたび周囲に漏らしていた。2003年オフ、星野が健康上の理由から監督を勇退した際には、「俺は監督と一蓮托生」と自身も退団した。
2004年、三たびTBS解説者として復帰。TBS時代は、いずれもスポーツニッポン評論家との兼務である。
北京五輪コーチ時代
2007年1月29日、星野が北京五輪日本代表監督に就任、再び星野の下でヘッド兼打撃コーチとなる。この時、星野からコーチ就任を依頼された際の言葉は「行くぞ」だけであった。結果は振るわず4位で終わった。
現在
2009年、阪神タイガースOB会にて新会長に選任され、同年秋に第6代会長に就任した。
プレースタイル
打撃
飛距離の長さ、大きく美しい放物線を描くホームランの軌道から「ホームラン・アーチスト」(“アーティスト”とホームランを示す“アーチ”を合わせた造語)と呼ばれていた。特に外角球に強かったが、この長打力は、田淵の左腕が右腕よりも3cmあまり長かったことも大きいとされる。これを発見したのは、新人時代に田淵のスーツを仕立てた洋服屋であった(大和球士「プロ野球スター列伝」)。ただし、晩年はこの腕の長さの違いが思うような打撃につながらない原因になったという。しかし、打席ではあくまで冷静で毎年多くの四球を選ぶ選球眼も武器の一つ。通算本塁打474本は歴代10位(2009年シーズン終了現在)の記録であるが、田淵の長距離打者としての特筆すべき点は、本塁打1本を打つのに要する打数の少なさである。2009年シーズン終了時点で通算300本塁打を記録した選手は35人いるが、田淵の本塁打率(打数/本塁打)は王貞治、アレックス・カブレラに次いで3番目に小さい。
- 300本塁打以上で本塁打率が15以下の選手(2009年シーズン終了現在)
| 王貞治 | ||
| アレックス・カブレラ | ||
| 田淵幸一 | ||
| タフィ・ローズ | ||
| 松井秀喜 | ||
| 長池徳士 | ||
| 清原和博 | ||
| 落合博満 | ||
特に1983年は故障で82試合の出場ながら30本塁打を打っており、プロ野球では初めて「規定打席に未到達で30本塁打」を記録した選手となった。この記録は2009年シーズン終了時点で田淵を含めて5人が記録しているが、田淵以外はいずれも外国人選手によるものである。
デビューは対大洋戦で、江夏豊の代打で平松政次と対戦し、シュートに手が出ず三振だった。これ以後、シュートを極端に意識するようになり、若い頃の田淵はホームランを打つと球種が何であろうと取材には「打ったのはシュート」と答えていた。取材したスポーツ記者はこれだけで記事を書かなければならず、苦労したという。
対巨人戦に強い打者だった。例として巨人がV9を達成した1973年は、田淵はこのシーズンの37本塁打中、対巨人戦で16本を放っている。同年は1試合3本塁打を2度、他に5試合連続で9本塁打、7打数連続本塁打(前述)を成し遂げているが、いずれも対巨人戦で出した記録である。また、優勝争いをしていた10月10日の対巨人戦で逆転満塁本塁打を放ち、終盤でチームを首位に上げる勝利をもたらす等の勝負強さもあった。しかし、その後の中日・巨人との最終決戦に敗れ、優勝はならなかった。後に本人も「このとき優勝していれば自分の野球人生は変わっていた」と語っている。
打撃に対する姿勢も天才肌だったようである。西武時代、野村克也が大鏡の前で素振りをするでもなくただ構えをチェックしている田淵を見つけ、何をしているのかと聞くと「僕は構えさえ決まれば打てるんです」と答えた。野村は「構えは確かに大事だが、いい構えだけでさあ何でも来いというのは田淵だけや」と呆れたという。
いしいひさいちの『がんばれ!!タブチくん!!』で「滅多にないことの例え」として「タブラン」(田淵のランニングホームランの略)という言葉が出てくるが、星野仙一によれば法大時代は足は滅法速かったと言われる。長嶋茂雄の六大学記録に迫っていた時、ランニングホームランで達成しそうになり「失礼だ」という理由で三塁で止まったこともある。プロ生活ではランニングホームランは1度もなく、盗塁も18個しか記録していないが、これは肥満以上に度重なる怪我の影響のほうが理由として挙げられる。
現役時代は三振は少なくシーズン100三振以上を記録したことは一度もない。犠打も一度もなく、一度だけ試みた犠打が失敗に終わり、その打席で本塁打を打ったため、公式戦犠打0の記録が残った。足が遅いため併殺打になると監督たちが考えた可能性がある(2008年1月17日放送のNHKラジオ「わが人生に乾杯」で本人談)。
通算400本塁打以上を放ちながら、2000本安打に到達しなかった唯一の日本人選手である。
球界屈指の長足であったが、それゆえにバッティングフォームの重心が高く、確実性に欠けるとの指摘もされていた。
阪神時代と西武時代に1回ずつ4者連続本塁打にからんだが、通算2回以上は田淵一人である。
守備
巨体であるが若い頃は捕手としての動きは俊敏で、大学時代には俊足の高田繁との対決が見せ場であった。プロ入りしてからも投球を受けてから二塁に投げるまでの動作はトップクラスの速さでそれに加えて強肩であり、20代の頃は盗塁阻止率4割以上を記録している。しかし、既述の外木場から受けた死球の影響により聴力の低下や体質変化(肥満)のためにプレーが緩慢になっていったと言われる。特によく挙げられるのは、阪神時代に何でもないキャッチャーフライを見失い、落球したというプレーである。また、当時の阪神には辻佳紀・辻恭彦など守備に定評のある捕手がいたこともあり、早くから一塁手への転向が試みられ、しばしば一塁や外野でも出場していた。江夏豊の評によると、捕手として大成できなかった要因は大雑把な神経にあるという。
その他
一般に曲者揃いとされる大捕手の中では珍しい、非常に大らかな好人物である。江夏豊もその人間性について「ブチほど純粋で裏表のない人間はいない」と述べている。目が合って一言でも挨拶してしまうと途端に相手が敵とは思えなくなり、まともな勝負ができなくなってしまうため、試合前に対戦相手の選手とできるだけ目を合わせないようにしていた(「ホームランだけが人生だ」)、「当たると痛い」のでインコースギリギリに投げて打者を威嚇するようなサインは絶対に出さなかった(江本孟紀による)、コーチに「サインが盗まれているから隠せ」と言われても「そんなこすっからいことする人いません」と取り合わなかったなど、人の良さを示す逸話は枚挙に暇がない。また、サイン盗みを卑怯な手と思って絶対に使わず、正々堂々と勝負することを常としていた。10対0の大差で勝っている試合で、相手チームの選手に懇願され球種を「ストレートだ」と教え、打たれてしまったことがある。その選手は成績が悪く、代打起用でここ一番目立たねばならず「ミルク代を稼がせてください」と必死に打席で頼んだという。妻と子供を抱えているのを知っていて、つい教えてしまった。しかし「ストレートと知っていて打てるわけじゃないから、本人がそれだけの人だった」とも語っている(2008年1月17日放送のNHKラジオ「わが人生に乾杯」で本人談)。
生涯阪神でない事から、ミスタータイガースでは無いとの意見もあるが、田淵が3代目で掛布が4代目のミスタータイガースであるという意見が主流である。
『がんばれ!!タブチくん!!』
1977年に入団当時に比べ肥えてしまった田淵をモチーフとした、いしいひさいち作の漫画『がんばれ!!タブチくん!!』が連載され単行本がベストセラーになった。また漫画の中ではタブチの良きパートナーとしてヤクルトの安田猛や大矢明彦、また当時ヤクルトの監督で後に西武の監督に就任する広岡達朗もキャラクターとして登場。1979年には映画にもなった。タブチを含むこの漫画の主要キャラクターの多くは、スターシステムで以降のいしいひさいちの漫画に登場している(例えば『ののちゃん』の体育教師タブチ)。『がんばれ!!タブチくん!!』に出てくるミヨコ夫人は、前夫人がモデルである。田淵本人は最初知らなかったが、家庭内のネタは前夫人が情報源であったことをテレビ番組内で語っている。自身をネタにされているにもかかわらず田淵自身この漫画の大ファンで、いつも読んでは大笑いしていたという。
また、タレントのダンカンが江夏から直接聞いた話として、劇場アニメ化された際に江夏と二人で観に行き「自分をモデルにした映画だと言うから見に来てみたら、お客さんが全然入っていないじゃないか!」と内容ではなく観客の入りの少なさを怒っていたという。この言葉に江夏は「ま、昼間やから仕方ないやろ。夜やったら満席やで」と慰めたという(DVD-BOX同梱の解説書より)。
現夫人は野球にはまったく興味がなく、この漫画で田淵の存在を初めて知った。その結果として彼女と結婚できたので、田淵自身は「この漫画には不満などなく、むしろ感謝している」と、後年テレビ番組内で語っている。
背番号22
背番号22は法大時代にも着けており(主将となった1968年は「10」)、大学での通算本塁打も22なら阪神での背番号も22、さらにルーキーイヤーの本塁打数も22と、22という数字とは不思議な縁があった。阪神から西武へ移籍後の1983年、阪神は田淵の功績を称えて移籍以来空き番となっていた背番号22を法大出身の木戸克彦捕手に与えた。その後、関川浩一(21から変更)・中谷仁(その後66に変更)までは捕手が続いたが、喜田剛(外野手だが大学時代は捕手、その後55に変更)・マイク・キンケード(内野手だが米国で捕手経験あり)と捕手を経験した野手が続き、2005年からは投手の藤川球児の番号となった。
西武では、田淵以後の22は捕手が多く、捕手以外は行沢久隆(内野手、8から変更。現役最終年の1988年のみ)・清水義之(内野手、1993年途中~1996年開幕直前)の2人のみで、2010年現在も捕手の野田浩輔の番号となっている。外野に専念してレギュラーとして定着する以前の和田一浩(その後5に変更)も捕手との兼任で22を着けていた。
なお、西武の前身である西鉄~太平洋クラブ~クラウンライター時代は、捕手は1950年の笠石徳五郎と1951年の後藤宏之の2人だけで、投手が着けていた時期もあり、主力では玉造陽二(外野手、その後17に変更)・東田正義(外野手)や吉岡悟(内野手、田淵に22を譲った後は8)などが付けていた。また後にプロゴルファーとなった尾崎将司(投手→内野手)も着けていた。
家族・交友関係
夫人は元女優のジャネット八田(八田有加)である。いわゆるできちゃった結婚であり、田淵は当時バツイチで年齢も35歳であったため話題を呼んだ。二人の間に2男があり、長男はフジテレビアナウンサーの田淵裕章(たぶち ゆうしょう)。江本孟紀は法政大学の1学年後輩で、江本の阪神移籍後は再びバッテリーを組んだ。古沢憲司を含む3人でよく一緒に行動し、田淵が西武へのトレードを伝えられるために呼び出された日にも3人でゴルフをし、場所を変えて球団の再建策を話し合っていたという。
星野仙一、山本浩二とは親友である。もともと大学時代、広島の田舎から出てきた山本に田淵が東京を案内したのが最初。この2人と富田の三羽烏があまりに仲がいいので、星野が嫉妬して割って入ってきた。1989年正月に朝日放送で放映された「新春ビッグ放談」ではこの3人による対談が行われた。また、星野を取り上げた日本テレビ系列「スーパーテレビ」では、3人の広島の焼肉店での会食・裏話も飛び出す談笑が放送された。当初「監督とコーチでいるからには星野監督とは友達関係を一切捨てる」と言っていた田淵だったが、この中では完全に友達関係。阪神コーチ退任時の会見では「ようやくこれからは前みたいに『仙ちゃん』と呼んで、普通に話ができるよ」と発言した。現役時代、広島遠征時には、敵味方に分かれているにもかかわらず山本と一緒に食事をしたり、山本の家に遊びに行ったりしていたという。
西武時代チームメイトで親友となった東尾修に、4歳年下であるが、同期入団なので親しみを込めて「オッサン」と呼ばれている。
朝日放送の「探偵!ナイトスクープ」局長の西田敏行は、『がんばれ!!タブチくん!!』がアニメ映画化された際に主人公・タブチの声を演じたことと西田が阪神ファンであることもあり、親交が深まり、その縁で田淵も「ナイトスクープ」に番組顧問として不定期に出演している。西田は田淵に映画『釣りバカ日誌』への出演を頼んだこともあるが、果たすことがないままシリーズが終了した。
詳細情報
年度別打撃成績
| 阪神 | ||||||||||||||||||||||||
| 91 | ||||||||||||||||||||||||
| 16 | ||||||||||||||||||||||||
| 130 | 43 | 280 | 15 | |||||||||||||||||||||
| 130 | ||||||||||||||||||||||||
| 西武 | ||||||||||||||||||||||||
| 通算:16年 | ||||||||||||||||||||||||
|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|
- 各年度の太字はリーグ最高
年度別盗塁阻止率
| - | |||||
背番号
- 22 (1969年 - 1984年)
- 81 (1990年 - 1992年)
- 88 (2002年 - 2003年)
タイトル・表彰
個人記録
- オールスターゲーム出場:11回 (1969年 - 1976年、1978年、1979年、1984年)
- 4打数連続本塁打(1973年5月9日~5月10日)
- 13打席連続出塁(1974年8月6日~8月8日)
年度別監督成績
| 年度 | 球団 | 試合 | 勝利 | 敗戦 | 引分 | 勝率 | ゲーム差 | 本塁打 | 打率 | 防御率 | 年齢 | |
|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|
| ダイエー | ||||||||||||
| 通算:3年 | Bクラス3回 | |||||||||||
- ※1990年から1996年までは130試合制
アクシデント
以下に記す通り、田淵は、毎年のように大きな怪我や病気に見舞われていた。
- 1969年:左肘打撲
- 1970年:腰痛、右足首捻挫、左側頭部死球(前述。この影響で左耳が難聴である)
- 1971年:急性腎臓炎、左手首・左足打撲
- 1972年:左手首打撲、頭部打撲
- 1973年:急性腰筋痛(3回)
- 1974年:左手関節挫傷、左前腕打撲、右肘関節挫傷
- 1975年:右足挫傷
- 1976年:右膝打撲、左側頭部打撲
- 1977年:左肘痛、右手親指骨折
- 1978年:腰痛
- 1979年:アキレス腱痛
- 1980年:前頭部打撲、右膝打撲
- 1981年:右膝打撲(2回)
- 1983年:左手尺骨下端骨折
- 1984年:花粉症(本人曰く、「花粉症が騒がれる以前(1970年代以前)から春先は風邪のような症状があって、春の田淵は調子が悪いと言われていた」)
怪我のせいでタイトルを棒に振った例も多々あり、また、腎臓炎治療の際の投薬治療が原因で肥満するようになったと言われる。全試合出場は1975年、1976年の2度しか記録できなかった。
歌
- 六つの星(1976年5月1日発売、メインボーカルは細川たかし)
現在の出演番組
- 野球中継(テレビ)
- 野球中継(ラジオ)
- TBSラジオ エキサイトベースボール
- ABCフレッシュアップベースボール(火~木・土・日曜ゲスト)
- RCCカープナイター・カープデーゲーム中継(月・火・土・日曜の『横浜 vs.広島』のTBSラジオからの裏送り。RCC以外への裏送り中継へ出演は少ない)
- バラエティなど
出演映画
脚注
関連項目
日本の野球選手
法政大学野球部の選手
阪神タイガース及びその前身球団の選手
埼玉西武ライオンズ及びその前身球団の選手
福岡ダイエーホークス
本塁打王 (NPB)
野球監督
野球解説者
生島企画室
東京都出身の人物
1946年生
存命人物